『村上春樹、河合隼雄に会いにいく / 村上 春樹』

村上春樹、河合隼雄に会いにいく 村上春樹、河合隼雄に会いにいく
河合 隼雄 村上 春樹
岩波書店 1996-12
内容(「BOOK」データベースより)

村上春樹が語るアメリカ体験や’60年代学生紛争、オウム事件と阪神大震災の衝撃を、河合隼雄は深く受けとめ、箱庭療法の奥深さや、一人一人が独自の「物語」を生きることの重要さを訴える。「個人は日本歴史といかに結びつくか」から「結婚生活の勘どころ」まで、現場の最先端からの思索はやがて、疲弊した日本社会こそ、いまポジティブな転換点にあることを浮き彫りにする
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読書という行為には、必然性と偶然性とがいろいろと絡み合って、読み手の状況や精神状態で同じ書物を読んでも受け取り方が違うのだと思うのです。

今回、何も考えずに図書館に行って適当に借りてきたんだけど、読み始めたら一気に読んでしまった。近日、読書に集中できてないのでこれは珍しい。おそらく色々と自分の悩み(というほどでもないけど)を彼ら二人の対談内容に投影したからだと思う。

そのキーワードは「コミットメント」や「よりどころ」ってところ。コミットメント、という単語はビジネス用語での意味しか知らず、「必達目標」という意味だと思ってたけど、「関わりあい」という意味もあるのね。村上さんは、昔はデタッチメント(関わりのなさ)を意識的に行ってたけど、コミットを考えるようになって、それで何にコミットするかを迷っているというようなことをおっしゃってた。そして、やっぱり私も何とコミットしていいのかよくわからんまま、今過ごしている気がしてる。会社でもないし友達でもないし家族でもないし自分自身でもないし。もっというと「人」とコミット(関わりあう)するというのがよくわからんのだよね。いや、もしかして関わりあうのは人じゃなくてもいいのかもしれないんだけど。

要は自分が浮ついている(生き方含めて)のは、他者とコミットしてないのと拠所みたいなのが無いせいなのかなと思ってみたり。*でもこないだの仏教の本には「よりどころ」を持つのは良くない、と書いてあったけどね!よりどころがあるとそれで一喜一憂しちゃうからとかなんとか

……と、つらつら文を書いてみてもまとまらないな。もうちょっと寝かせてみます。あ、本は面白かったよ。自分に井戸を掘らねばね。